松岡 修造(まつおか しゅうぞう、1967年11月6日 - )は、東京都出身の日本の元男子プロテニス選手、兼スポーツキャスター[1]、スポーツ解説者。
松岡 修造(まつおか しゅうぞう、1967年11月6日 - )は、東京都出身の日本の元男子プロテニス選手、兼スポーツキャスター[1]、スポーツ解説者。現日本テニス協会理事強化本部副部長[2]。マネジメントはIMG JAPAN。身長188cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATP自己最高ランキングはシングルス46位、ダブルス95位。ATPツアーでシングルス1勝(日本人男子初のATPツアーシングルス優勝)、ダブルス1勝を挙げた。
1995年ウィンブルドン選手権男子シングルスで日本人男子として62年振りにグランドスラムベスト8に進出した人物である。また現在、ウィンブルドン選手権では日本人男子最後のベスト8進出者となっている。また、ウィンブルドン選手権での通算7勝は2015年に錦織圭に抜かれるまで日本人最多の記録であった。
現役引退後はジュニア選手の指導やテニス大会の運営、日本テニス協会の理事を務めるなど引き続きテニスに携わりつつ、スポーツキャスター、タレント、日本オリンピック委員会スポーツ環境専門委員、ミズノスポーツ振興財団顧問[3]などとしても活動している。
幼少期?慶應義塾時代
東宝第11代社長となる実業家の松岡功と、元宝塚歌劇団の星組男役スターであった千波静との間に三人姉弟の次男として生まれる。父方の曾祖父は阪急電鉄や宝塚歌劇団などの阪急東宝グループ創始者の小林一三であり、親族に多くの実業家を持つ家系の中で育った。
父親の功は元テニス選手であり、甲南大学在籍時に全日本学生テニス選手権大会で単複優勝し[4]、デビスカップ日本代表に選出[5]。1955年の全日本年間ランキングでは宮城淳と加茂公成に次ぐ3位を記録する国内トップ選手の一人であったものの[6]、家業を継ぐため大学卒業を機にテニスとの関わりを一切絶ち、自身のテニス選手としての過去を子供達にも全く話さなかった為、松岡はテニスを始めた当初父がデ杯代表選手であったことを知らなかった[7][8]。
8歳の頃に、既にテニスをしていた三歳年上の姉・敏子[9]を見てテニスに興味を持ち、一歳年上の兄・松岡宏泰[9]と共にテニスを始める[10][8]。当時の松岡は身長も低く丸々と太った体型で、周囲の大人達に悪戯をして回るような腕白坊主であり、一方、兄の宏泰はそんな弟とは対照的にいつも温厚で礼儀正しい子供で、体格にも恵まれて(宏泰が高校に入学した頃は修造より20cmも身長が上であった)、テニスセンスも抜群だった為に、周囲のテニスコーチは宏泰に注目して、より高度な指導を行なっていた[11]。当然松岡もコーチに「自分にも教えて欲しい」とせがむも、コーチから返ってくるのは「修ちゃんは、ガッツがあっていいよ。」と言った慰めの言葉程度であったという(松岡自身も後年に至るまで自身のテニスにおける素質の無さを自認しており、むしろテニスに関して自分よりも遥かに世界に通用する素質を有していたのは兄のほうであったと述懐している[12])。
また学業の方も惨憺たる状態で、松岡が学んでいた慶應義塾幼稚舎では4年生から落第の制度があったが、授業中でも教師の話を殆ど聞かず、宿題にも手を付けないといった事の繰り返しで担任から母と共に何度も呼び出しと注意を受け、三学期になるとそれを何とか挽回し落第をからくも免れるというパターンを繰り返す問題児であった。一方兄は本を読むのが大好きな少年で、勉強もトップクラスと修造とは対照的に何から何まで優秀な人物であり、そのギャップがかえって松岡兄弟が周囲の注目を集める要因となっていた[13][14]。
だが才能の無さを指摘され、自身もそれを自覚しながらもテニスへの情熱は衰えるどころが増していき、名門テニスクラブとして知られる桜田倶楽部で元テニス選手の飯田藍らの指導を受けながら本格的にテニスを学ぶようになる。慶應義塾中等部に進学する頃には勉学を優先していた兄とは対照的に中等部の校長から「テニスと学業の両立を図るように」と叱責を受けるほどテニスに毎日の時間の殆どを割き、中学2年生の時に全国中学生テニス選手権大会で優勝。次第に頭角を現すようになる[15][16]。その後慶應義塾高等学校に進むも、この頃中学3年生の時に覚えた麻雀に嵌り異常なまでにのめり込むようになり、夢中に取り組んでいたテニスよりも勝敗がその場で出る麻雀にうつつを抜かす毎日が続いた[8](その入れ込みようは自身の指先を見るといつの間にかテニスで出来たマメが消え、麻雀で出来たタコができていた程であったという[17])。しかしそんなある日、ふと自分の心中で「こんなことばかりしていていいのか?」「テニスがもっと強くなりたいと思っていたんじゃないのか」「目標のないまま大学に進学し、成り行きで就職して社会人になるのか。そんな人生でいいのか」と自問することがあった。そして「このままでは自分は駄目になる。自分が本当に好きなものはテニスなんだ」という事に気付かされた松岡は、そうしたぬるま湯的環境(松岡はこれを「甘え地獄」と形容している)となっていた慶應高校での学生生活を捨て、自分自身を鍛え直す為に高校テニス界の名門校として知られていた柳川高等学校への転校を決意する[18]。この決断は両親に激しく反対された上、学校の教師からも当初は松岡が留年を恐れて転校を決心したと受け止められ、「学校のテニス部に入っていれば、成績が悪くても大学に行けるようにしてあげるから・・・」と心配された。しかし松岡の決意は固く、父を必死で説得し、柳川で必ず推薦の枠をもらって大学に進学することを条件に転校を許される[19]。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E4%BF%AE%E9%80%A0
松岡 修造 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E4%BF%AE%E9%80%A0&aq=0&oq=%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%8A%E3%81%8B&at=s&ai=vOnUymi3QhODkKE4Z3DY.A&ts=6328&ei=UTF-8
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