博多華丸・大吉(はかたはなまる・だいきち)は、吉本興業東京本社(東京吉本、厳密には子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本社)に所属する日本の漫才コンビ
博多華丸・大吉(はかたはなまる・だいきち)は、吉本興業東京本社(東京吉本、厳密には子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本社)に所属する日本の漫才コンビ。1990年5月にコンビ結成し、吉本興業福岡事務所(福岡吉本)からデビュー。福岡で活動した後、2005年に上京し、吉本興業東京本社の所属となる。博多弁漫才を全国展開し活躍している。略称は華大(はなだい)。THE MANZAI 2014優勝者。
博多華丸(はかた はなまる、本名:岡崎 光輝〈おかざき みつてる〉、1970年4月8日 - )
福岡市早良区出身。ボケ担当。博多大吉(はかた だいきち、本名:吉岡 廣憲〈よしおか ひろのり〉、1971年3月10日 - )
福岡県古賀市出身(生まれは兵庫県神戸市[1])。ツッコミ、ネタ作り担当。
来歴[編集]
1989年、ともに福岡大学に進学し、落語研究会に所属したことにより知り合う(後に二人とも大学を中退)。地元のタウン誌に活動が紹介され、それを見た別のプロダクションにコンビ名「ヨッチャン・オカチャン」を付けられ東京でやらないかと誘われたこともある[2]が、怪しいプロダクションだったため、そこには入らなかった。その後、1990年4月、地元で開催されたオーディション番組『激辛!?お笑いめんたい子』(テレビ西日本)に「岡崎君と吉岡君」の名で漫才コンビとして出場。それがきっかけとなり、同5月吉本興業福岡事務所の1期生のオーディションに合格。初代吉本福岡事務所長の「芸人は本名ではなく芸名で」という方針で、当初「華丸・大吉」としてデビュー、その後、「芸名(平仮名で)7文字が売れる」ので「さらにめでたい名前をつけよう」という意向で、「鶴屋華丸・亀屋大吉」(つるやはなまる・かめやだいきち)と改名する[1]。
デビュー翌年から地元テレビ番組『どっちもどっち博多っ子倶楽部』(TVQ九州放送)にレギュラー出演(但し大吉はフロアディレクター)、1993年には『とことんサンデー』(テレビ西日本)の司会となり、福岡県をはじめとする九州・山口地方ではトップクラスの人気を獲得[1]、全国デビューする前の1995年にフジテレビ『めちゃ2モテたいッ!」』(『めちゃ2イケてるッ!』の前身番組)で「福岡の人気芸人」として紹介され、福岡に来たナインティナインらとの共演も果たしている。当時は司会やリポーターなどの仕事が主で、テレビで漫才を披露する機会はほとんどなかった[3]。1997年より1年間、事務所と地元局との間のトラブルにより大吉が自宅謹慎となり休業。この謹慎期間を期にネタづくりは華丸から大吉中心に移行した[4][5]。1999年から2003年まで『爆笑オンエアバトル』に出演した(ゴールドバトラー)。
2001年の第1回M-1グランプリでは11位となり決勝進出はならなかった。結成11年だったが吉本興業の社員から「ええねん、ええねん」と言われ出場の要請を受け出場、しかし準決勝の時点で主催者側から「10年を超えているのはやはり駄目」となり実質失格の扱いだった。当時は敗者復活枠が無くこの時点で結成10年を超えていた為、次年度以降は出場出来ず、これが最初で最後の出場となった。
2004年4月、屋号を博多に変更した現在の芸名へ改名する。改名のきっかけは、姓名判断に詳しい福岡事務所の女性パート職員が退職する際「『鶴屋』と『亀屋』は運気的に最低の名前」「『鶴屋』がほぼ0点に近い。『亀屋』は口に出せない(ほど最悪)」と判断され、「ずっと気になっていた」「お願いだから改名して欲しい」と頼まれた事である。その女性職員から「いい名前がある」と勧められたのが、現在の『博多』の屋号である。またその女性職員から「屋号を博多に変えて2年以内に二人が東に向かうと運気が上がる」ともアドバイスされる[1]。なお、改名に際し同じ「博多」の屋号であった木村進(三代目博多淡海)にも報告し、改名を快く認めてもらったという。
2005年4月に、華丸曰く、先述の元女性職員のアドバイスに「背中を押していただいた」形で[1]、3年越しの念願であった東京本社へ移籍。東京進出のきっかけとしては、華丸の娘が小学校入学を控えており、就学中の転居を避けたかったことや[6]、かつての後輩のヒロシがブレイクしていたこともあったという。同期の竹山隆範がカンニングとして全国区でブレイクした時はそれを祝福し、ネタも標準語主体であったため気にしておらず、その竹山本人からも「絶対に(東京に)来ちゃダメ」「厳しい言葉になるけど、多分売れないよ」とアドバイスを受けていたが[7]、6コ下の後輩のヒロシが熊本弁を用いたネタで受けていたことは、博多弁漫才を売りにしていた彼らに大きなショックを与えた。また、福岡で仕事がないため上京したはずのヒロシが「挙げ句の果て、福岡に凱旋で帰ってきた」際に、福岡時代には見たことも無いくらいウケていたことから「一回、東京のフィルターを通して東京で売れたという肩書きがあると、こんなに違うもんだと、実感した」ことが、東京進出を決意させた[8][9]。当時福岡で一緒に番組に出ており、二人の芸や人柄に触れた氷川きよしも、「福岡にいてはもったいない」という表現で東京行きを勧めていた[3]。
移籍後はルミネtheよしもとでの舞台などが主な活動の場となっている。また、月に数回は福岡での仕事も出張として行っている。しかし移籍当初、テレビ局や制作会社には新人とみなされたため、東京進出直後はテレビ出演一本あたりのギャランティは福岡時代より断然減っており、出演数をこなしているのでそれなりの生活が出来ている状態であった。また、35歳になってから上京し各お笑い番組のオーディションを受けるものの、当時は「どの番組もフレッシュな若手が欲しいらしく、変にこなれた(華丸・大吉)は、求められていない感があった」ため[10]、「面白いんだけど、それが伝わりづらい」との理由で落とされたり[11]、「10歳以上、(年齢が)下」の審査員から「感想言われる前に痛々しいと言われた」ような悲惨な経験もしている[8]。加えて、福岡時代に「東京に出てきたら」と言ってくれていた人々の態度も一変、「本当に来たの?」「福岡に居ればいいのに」と感じられたという[7]。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E8%8F%AF%E4%B8%B8%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%90%89
博多華丸・大吉 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E8%8F%AF%E4%B8%B8%E5%A4%A7%E5%90%89&aq=5&oq=%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%9F&at=s&ai=t0nL.x.URdmd5I4nz56IhA&ts=7428&ei=UTF-8
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