今田 耕司(いまだ こうじ、1966年3月13日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者である。
今田 耕司(いまだ こうじ、1966年3月13日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者である。愛称は今ちゃん。大阪府大阪市出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。
デビュー前[編集]
3人兄弟の末っ子。実家は大阪市天王寺区生玉の道善寺という本門法華宗の寺で、父は会社員と住職を兼業していた。 住職である父親は誕生日がクリスマスであり、今田はこのネタをすべり知らずであると語っている。
中学3年生のとき、友人3人で独立して生活していこうと決心して家出するが、数日で連れ戻されて自宅謹慎になる。
1981年、先生からの勧めで全寮制の日生学園第一高等学校(現在は桜丘高等学校)に入学。しかし、1年で「映画『大脱走』みたいな感じ」で寮から脱走し、そのまま中途退学した。 (一度目の脱走は失敗し連れ戻され、二度目の脱走で成功しそのまま退学する) なお、後に芸人として先輩・後輩の関係になる浜田雅功は同校の卒業生(副寮長を務める)である。
その後、清風高等学校定時制課程普通科に編入。昼間は日本一若い店長になることを目標にしてラーメン屋で働いていた。夏休みは、友人数人と母方の実家である宮崎県高鍋町に滞在し、小丸新茶屋(うどん店)でアルバイトしながらサーフィンに没頭していた。
NSC入学?大阪時代[編集]
定時制高校の卒業後は、「手に職をつけたい」と思い寿司職人か美容師の専門学校の入学を検討した。しかし学費が高く、肌が弱かったために医者から「水を扱う職業には向いていない」と忠告されたこともあって断念。途方に暮れていたときに、当時入学料が5万円程度だった「吉本総合芸能学院」(以下、NSC)に目が留まり、「昔からお笑いも好きだし」と軽い考えで1985年、4期生としてNSCに入学した。同期にNSCでは130R(ほんこん、板尾創路)、桂茶がまがおり、吉本以外ではダチョウ倶楽部やウッチャンナンチャンなどがいる。程なく、ほんこんとお笑いコンビ「ダブルホルモンズ」を結成。ほんこんは「骨付きカルビ」という芸名でボケ、今田は「上ロース」という芸名でツッコミであった。ネタはほんこんが作っていて、節水をテーマにした漫才などをやっていた。
NSCは実家から2駅離れた場所にあったため、当時今田はNSCには実家から通っていた。家に帰れば食事も寝る所もあり、さらに夜はアルバイトをしていたのでお金もそこそこあった。そのため今田は当時を振り返り、「良いこと尽くめの下積み時代だった」と語っている。
1986年、ダブルホルモンズを解散し、ピン芸人として活動を始める。ちょうどこの頃、2丁目劇場ができるタイミングで前座のオーディションがあり、ピンになって初めて書いた「才能のない構成作家のオーディション」というネタで見事合格した。ダウンタウンとはこの頃に出会い、「おもろいな」と爆笑してもらったのが最初に交わした言葉である。
1986年、京都花月12月中席(12月11日 - 12月20日)にて劇場デビューする。
1987年4月、『4時ですよーだ』放送開始。1989年、『4時ですよーだ』終了後、東野幸治らと共に吉本新喜劇の補強メンバーとして活動。時には座長として舞台をこなす。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E7%94%B0%E8%80%95%E5%8F%B8
今田 耕司 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E8%80%95%E5%8F%B8&aq=0&oq=%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%A0&at=s&ai=34j.6EuqQn.RI4pnhRUVCA&ts=4805&ei=UTF-8
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