鈴木 誠也(すずき せいや、1994年8月18日 - )は、東京都荒川区出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。
鈴木 誠也(すずき せいや、1994年8月18日 - )は、東京都荒川区出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。右投右打。広島東洋カープ所属。
プロ入り前[編集]
小学2年生の時に荒川リトルで野球を始める。中学校時代には荒川シニアに所属していた[2]。
二松學舍大学附属高校へ進学してからは、投手として、1年時の秋からエースの座を確保[2]。2年時には、4月下旬に右太ももの肉離れを発症した。夏の選手権東東京大会では、本調子から程遠い状態でありながら、チームの準決勝進出に貢献。関東第一高校との準決勝では、5回に満塁本塁打を浴びるなど不調で、チームも0-7で8回コールド負けを喫した[3]。3年夏の東東京大会では、準決勝で成立学園高校と対戦したが、2回途中3失点で降板。8回に再び登板したものの、4点を追加された末に、チームも6-8で敗れた。なお、この大会では成立学園が優勝している。
高校在学中には、前述したように、春夏とも甲子園球場の全国大会へ出場できなかった。しかし、投手として、ストレートで最速148km/hを記録。打者としても対外試合で通算43本塁打を放ったほか、一塁手として対外試合に出場することもあった[4]。
野手としてのプレー経験がある広島東洋カープの尾形佳紀スカウトが打力と走力を高く評価したこと[4]を受けて、2012年のプロ野球ドラフト会議では、広島から内野手として2巡目で指名[5]。契約金6,000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団する[6]と、投手から内野手へ転向した[2]。背番号については、「(本名の姓が自身と同じで、プロ入りを機に投手から外野手へ転向した)イチローを目指して欲しい」という球団幹部の希望で、「51」に決定した[6]。
広島時代[編集]
2013年、春季キャンプの序盤でインフルエンザを発症したフレッド・ルイスに代わって、2月2日に一軍キャンプへ合流。1日限定の参加だったにもかかわらず、オリックス・ブルーウェーブ時代のイチローを指導していた一軍打撃コーチの新井宏昌や、一軍監督の野村謙二郎から高い評価を受けた[7]。公式戦の開幕後は、野手転向1年目ながら二軍のレギュラーに定着すると、ウエスタン・リーグの公式戦で打率.281を記録した。9月14日にプロ入り後初めての出場選手登録を果たす[8]と、読売ジャイアンツ(巨人)とのカード初戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)7回裏に代打で一軍デビュー[9]。広島の高卒新人野手で一軍昇格を果たしたのは、1999年の東出輝裕以来であった[10]。16日の同カード第3戦4回裏の適時打で、一軍初安打・初打点を記録した[11]。一軍公式戦への出場は11試合にとどまったが、かつて自身と同じく背番号51を着用していた前田智徳の引退試合(10月3日)には、「1番・右翼手」としてスタメンに起用された。
2014年、7月17日のフレッシュオールスターゲーム(長崎ビッグNスタジアム)で、ウエスタン・リーグ選抜の「2番・遊撃手」としてスタメン出場を果たした[12]。一軍公式戦では、9月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に「1番・右翼手」としてスタメンに起用されると、1回表の第1打席に先頭打者として一軍初本塁打。その後の打席でも3安打を放ったことで、初めて猛打賞を達成した[13]。一軍公式戦全体では、36試合の出場ながら、.344という高打率をマーク。シーズン終了後に出場した第1回21U野球ワールドカップでは、日本代表のクリーンナップとして打率.423で大会の首位打者を獲得するとともに、外野手として大会のベストナインに選ばれた[14]。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%AA%A0%E4%B9%9F
鈴木 誠也 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFeVsOBYA1AA0gqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=%E9%88%B4%E6%9C%A8+%E8%AA%A0%E4%B9%9F&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
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