風見しんご(かざみ しんご、1962年10月10日 - )は、日本のタレント、歌手、ダンサー、俳優
風見しんご(かざみ しんご、1962年10月10日 - )は、日本のタレント、歌手、ダンサー、俳優。1982年~1988年:バーニングプロダクション(当初の芸名は「風見慎吾」。)→1989年~現在:(株)マスタープラン所属(バーニング系)芸名の由来は『仮面ライダーV3』の主人公・風見志郎(仮面ライダーV3)からである。広島県広島市西区己斐(こい)出身。成蹊大学工学部中退。
地元の町工場を経営する父の影響でエンジニアを目指し、広島学院中学校・高等学校に進学。周囲からは地元の広島大学を勧められたが、東京の成蹊大学に進学する。 大学在学中の1980年、東京ビクトリークラブのメンバーだった哀川翔を原宿で見て、チームに入れてくださいと懇願しメンバー入り[1]。デビュー前はリーゼントでキメて、愛称は"ボビー"。哀川とお揃いのダブルの革ジャンを着てラバーソウルを履いて二人で歩いていると、当時よく雑誌に声をかけられた。「ポップティーン」か「プチセブン」に初めて載った名前は"ボビー"であった。哀川が始めた劇団に「お前も参加しろ」と声をかけられて参加してその後、その劇団に入って来たのが野々村真、羽賀研二で、柳葉敏郎はまだいなかった[2]。欽ちゃんの週刊欽曜日のオーディションは野々村の付き人として風見と武野功雄(のちに欽ドン出演)の2人が同行して、なぜか付き人として行っていた風見が合格した[1]。風見と野々村は劇男一世風靡の前身・劇男零心会のメンバーで、劇男一世風靡には参加していないが「哀川翔のオトナ倶楽部 第15回」(BSフジ)で哀川は、風見と野々村を「初期一世風靡のメンバー」と紹介した[1]。
1982年、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』オーディションに合格してデビュー(当時は「風見慎吾」という芸名だった)。合格した理由も、この時のオーディションで萩本欽一に会った時に大きな声であいさつし「有名人を前に萎縮することもなくて、バカでかい声であいさつして合格!」と言われたという単純なことだった[3]。風見自身は元々母親から大きな声であいさつするように言われて育ち、声が大きくなったことで友達も出来易く「いいことがたくさんあった」という。こういったことから、自分の娘たちにも大きな声であいさつすることを教えているという。なお、娘たちには自分たち両親のことを「チチ」「ハハ」と呼ばせている[3]。
この番組で欽ちゃんファミリーの若きメンバーとして存在感を放つ。その傍らで劇男一世風靡が分裂する前の劇男零心会のメンバーとして活躍していた(劇男零心会に参加していたが劇男一世風靡には参加していない)[2][1]。 デビュー日(1982年10月8日)以来、現在まで一度もレギュラー番組が途切れることなく35年目。(2017年1月期現在でレギュラー番組96本)
1983年には「僕笑っちゃいます」でレコードデビューを果たし、第16回日本有線大賞最優秀新人賞、第16回日本レコードセールス大賞新人賞(男性部門)をそれぞれ受賞した。4曲目の「涙のtake a chance」(1984年12月リリース)は、自らニューヨークに出向き猛特訓でブレイクダンスを修得。振り付けに取り入れ話題を呼ぶ[4][5]。これをテレビで見てブレイクダンスを始めた者も少なくない[6](1985年放送のフジテレビのドラマ『スタア誕生』、『ヤヌスの鏡』に出演の際にも一部踊っているシーンがある)日本におけるブレイクダンスの先駆者であり、テレビを通して日本中にブレイクダンスを広めた人物の1人である[4][5][7][8][9][10][11]。 岡村隆史(ナインティナイン)やガレッジセールもリスペクトする存在と語ったことがある[7][12]。CRAZY-AやCAKE-Kらは風見のバックダンサーを務めた[13](当時ブレイクダンスを踊れる人物も少なかったため、風見が自らスカウトした[14])。2009年、マドンナの欧州ツアーのバックダンサーを務めたTAKAHIROは日本テレビ『速報!歌の大辞テン』で見た風見の「涙のtake a chance」に衝撃を受け、ダンスにのめり込んでいったと話している[15]。2010年9月6日放送の「やりすぎコージー」(テレビ東京)でも今田耕司が風見しんごさんのブレイクダンスは凄かったと絶賛して当時の映像を紹介した。 また「涙のtake a chance」以前の歌のダンスは、あくまで歌の振り付けであったが、この曲はダンスに歌が付いている、と言える程大胆にダンスを取り入れており、ここまでの楽曲はこれ以前になく、このため今日隆盛を極めるダンスミュージックの先駆者としての評価もある[4]。なお、ダンスの激しさと当時の演奏事情から、生歌のみで披露するとマイクを通して息継ぎの音が大きく聞こえたり、口からマイクを一定の距離で固定出来ないことによりマイクを通して聞こえるボーカルの音が大きくなったり小さくなったりしたが、当時の映像からもわかる通り、風見はこの曲を口パク無しでこなしていた(風見自身も2011年10月15日放送の『お願い!ランキング』において、「口パクは1度もしていない」と答えており、歌唱は全て生歌だったと話している)。それはアーティストに多大な体力的負担を強いるものであったため、平野啓一郎は、激しいダンスと歌の両立はムリ、という風見の提示が、後に歌とダンスの役割を分担するTRFやEXILEのようなグループを生み、他方「口パク」OKで、歌手自らが踊りながら歌うという流れを生んだと解説している[16]。 「涙のtake a chance」の次はタップダンスを、と師匠の萩本欽一に促されるも、本人が固辞し5曲目はさらに激しいダンス(ヌンチャクを使用した、本人曰く「バトルダンス」)の「Beat On Panic」(1985年4月リリース)となり、B面の「Hollywoodスペシャル」がタップダンス調となった。「Beat On Panic」は打ち込みを導入したエレクトロ風のファンキーな楽曲で[8]、曲の一部にラップが取り入れられており、これも日本のポピュラー音楽への導入としては初期のものとなる。 2010年9月20日放送のフジテレビ『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』内「伝説的アイドルの祭典! 史上最多30人大集結スペシャル!!」に出演(久々の音楽番組出演)し、「涙のtake a chance」を披露。終わった後のインタビューで「今、すっごく膝が痛いです」と言いながらも、以前テレビに出演していた時と同じ振り付けで歌い、当時と変わらぬ切れのあるダンスを披露した。
主演映画は3本で1987年公開『泣き虫チャチャ』は自身の6曲目「泣き虫チャチャの物語」がテーマ曲。同年の『あいつに恋して』では相手役オーディションで森高千里が選ばれ芸能界入り[17]。さらに1992年の「200X年 翔」では息子役に堂本光一、同級生役で堂本剛も出演し、その後『KinKi Kids』としてのデビューに繋がった。
映画の役柄でピアスを開けたが当時はピアスをしている男は少なく、同郷の"吉川晃司とデキてる"とか、週刊誌にいろいろ書かれた。この頃、銀蠅一家の矢吹薫と嶋大輔の三人で「ハリケーントリオ」を結成して全国を回った[2]。風見はデヴィッド・ボウイの大ファンで、デヴィッド・ボウイと同じスーツを作ってもらって、化粧して、ビリー・ジョエルや、カルチャー・クラブの楽曲や、欽ちゃんファミリーメドレーなどを三人で歌った[2]。選曲は大岩賞介[2]。
バンドブーム全盛期の1988年から1990年まで、TBSで放送された音楽番組・『キラリ・熱熱CLUB』の司会を16回まで務めた[18]。またニッポン放送で嶋大輔や羽賀研二、松村雄基らと『どんまいフレンド』というラジオ番組を持った[2]。一人称を「自分は?」と呼ぶ口調が特徴的(普段の公式ブログやコメントなどでは主に「僕」である)。
1990年代頃よりバラエティ番組やドラマに出演し高視聴率レギュラー番組も多く、各局の社長賞及び会長賞も何度となく受賞。ゲスト出演しても高視聴率や最高視聴率を獲得したりで師匠“萩本欽一”に負けず劣らず視聴率を稼げるタレント。「マジカル頭脳パワー!!」が最高視聴率31.6%を記録したのは96年5月2日の放送、瞬間最高視聴率の40.9%を記録したのは96年4月11日の「第16回大マジカル!!」の放送で風見がマジカルアート伝言バトルでアートを描いていた時。他にも視聴率が今ひとつだったところに風見をゲストに迎えてそれまでの最高視聴率を出し、その後、人気番組になったものも多い。「開運!なんでも鑑定団」、「チューボーですよ!」、「天才!志村どうぶつ園」などなど・・・「嗚呼!バラ色の珍生!!」はそのままレギュラーとなった。さらに長寿レギュラー番組も多い。
ウィキニュースに風見しんごに関するニュースがあります。
タレント・風見しんごさんの長女、交通事故で死亡
風見しんごさんの長女死亡交通事故、被告に実刑判決
風見しんごさんの長女死亡交通事故、高裁も実刑判決を下す
警察博物館で交通安全展が開催、風見しんごさんが交通事故の悲惨さを訴える
2007年1月17日、当時10歳で小学5年生の長女が東京都世田谷区で通学時、青信号のタイミングで交差点通行中、2トントラックにはねられ病院に搬送されたが死亡した。病院での治療時、風見および親族が見守る中、長女は止まっていた心臓を一時動かしたが、その直後再び心肺停止となり、風見は「何でこんなことで命落とさなきゃいけないんだ!?」と叫んだという(情報番組での報道)。霊安室にて長女の遺体を目の当たりにしながら、「こんな思いは誰にも味わってほしくない」と思ったという。長女の死化粧担当者に「娘は花嫁になるのが夢だったので、死化粧ではなく、花嫁化粧でお願いします」とお願いした(後述の著書より)。その後、通夜の場で会見を行い、涙を流しながら「娘と飲酒をしたかった」などと述べた。ただこの会見の中で「喧嘩嫌いだった長女のため」として加害者への思いは一切述べなかった[19]。その後、長女の死から四十九日を経過した際に加害者への思いを表したコメントを発表している。事故の詳細と裁判についてはウィキニュースのリンクを参照のこと。 長女の死去後、妻は再び妊娠したがダウン症児で死産した。
長女亡き後は、交通事故死亡者をなくすために各地で交通事故や命の大切さについてを語った講演と、警察等が主催する交通安全関連のイベントや啓蒙活動への参加を盛んに行っている。2012年7月26日に警視庁より交通安全運動に対して感謝状授与。
長女の一周忌にあたる2008年1月には、長女や交通事故に対しての思いを綴った著書『えみるの赤いランドセル』(この本のISBNコードはISBN 978-4903853178)を出版した。さらに2012年2月には娘への思いを自ら作詞した「ゆるら」を秋元康プロデュースで芸能生活30周年メモリアルCDとして発表。以後、日本歌手協会主催のチャリティーイベント等にも精力的に参加。
2008年、NHK福岡放送局の要請を受け、『追放!飲酒運転』キャンペーンの1分CMに出演。合計6本作られたそのCMでは、自らナレーションを務め、長女の写真も提供。自ら長女の実名を挙げることで交通事故の悲惨さを訴えている。NHKアナウンサーの松尾剛のインタビュー取材では、時折涙を流しCM出演を受諾するに至った思いを語った。2011年11月から12月にかけて、広島県の「広島被害者支援センター」のCMに出演、その中で当時を「自分だけが真っ暗な中に1人ぽつんといる気持ちになった」と振り返っている[20]。
「(長女の死亡直後)当初は時間が経てば気持ちは収まるかなと思ったが、時を重ねるごとに気持ちは変わらないんだな」と悟るようになったという。長女の死亡後、家庭が崩壊状態(妻が病で寝込むようになったり、長女の死亡当時、3歳だった次女が異様行動を取るようになったという)になったこともあると話している。後に「長女を守れなかった分、絶対に次女を守ろう」「今でも毎晩ベッドに入って目を閉じると、最初に事故の現場の映像が出てくる。僕が現場に駆けつけて目にした光景が・・・。家内も同じだと言います。でも今は『これではいけない。前向きに生きよう』と心に決めました。長女と天国で再会した時、『チチ、よく頑張ったね』と言ってもらえるようしっかりと生きていかなければいけない」との思いを持つようになったとしている。また、長女の死亡後は自身が車を運転する機会が以前の10分の1に減り、仕事やプライベートで外出する時はタクシーや電車、バスを利用している。自分が車を運転している目の前に長女が出てきて、彼女をひいてしまうという悪夢にうなされることもあるという[21]。
2016年4月5日、成人式を迎えるはずだった長女への思いを手記『さくらのとんねる~二十歳のえみる』と題して青志社より出版。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%94
風見しんご : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%94&aq=0&oq=%E3%81%8B%E3%81%96%E3%81%BF&at=s&ai=KkcUYp8YRWmRCVYlHRYChA&ts=6580&ei=UTF-8
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