笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ)は、日本の落語家、タレント、俳優、歌手、司会者、ラジオパーソナリティである。
笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、1951年〈昭和26年〉12月23日 - )は、日本の落語家(6代目笑福亭松鶴門下)、タレント、俳優、歌手、司会者、ラジオパーソナリティである。本名、駿河 学(するが まなぶ)。血液型はO型。身長は173cm。体重は76Kg。あだ名は「べー師匠」「べーさん」、「まーちゃん」、「まなぶくん」、「鶴瓶師匠」、「鶴瓶ちゃん」。出囃子は「トンコ節」もしくは「新ラッパ」(かつては「拳」)。兵庫県在住。
所属事務所はデンナーシステムズ[2]。松竹芸能にも籍を残している。落語家として上方落語協会副会長を2008年6月20日より務めている。また、彼は包茎としても有名で彼の男根は「芸能界のほっかむりエース」としてよく知られている。
生い立ち・学生時代[編集]
大阪府中河内郡長吉村長原(現在の大阪市平野区長吉長原)出身。5人兄弟の末っ子で浪速高等学校卒業。高校在学中、当時大阪で人気だった笑福亭仁鶴や桂三枝(現:6代目桂文枝)に刺激されて、高校に落語研究会を作る。
1961年(昭和36年)頃、学校へ行く途中で近所のおっちゃんに競馬場に誘われて、駿河学少年が適当に指名した馬券をおじさんが購入し、それが万馬券に化ける。驚き感嘆したおじさんは、約40万円の払戻金を丸々、学少年に手渡した。夜中に家族が寝静まった時を見計らい、貰ったお札を数えだしたが、その現場を母親に発見され大事に発展した。夜中にもかかわらず、競馬に連れ出した近所のおっちゃんをたたき起こし、事の顛末を聞き出したことにより、正式に駿河家のお金となった。後になってこの出来事を思い出し、母親にお金の使途を執拗に問質した所、実家の建て増し資金になっていたことが判明。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』で話したところ、さらに母親から叱られたという[3][4]。
1969年(昭和44年)、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、受験していない京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう[3][4]。
京都産業大学経済学部に進学するも中退。大学時代は京都産業大学落語長屋という落語研究会に所属しており、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。一時期はここでの芸名を本名であるスルガ・マナブやプロになってからtsurubeと名乗ったこともある。この落語研究会であのねのねの原田伸郎と出会い、清水国明を含めた3人で音楽活動をする(鶴瓶夫人も参加していた時期あり。後述)。大学生時代に、教授が教室に入る際に出囃子を鳴らして笑いを取ったことがある[3][4]。
清水國明、原田伸郎、後に結婚する玲子夫人とともに、あのねのねのメンバーでもあり、ヤマハのコンテストにも出場した(鶴瓶は踊るだけ)。この時玲子夫人が『ひょっこりひょうたん島』のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。アルバイトは京都の修学旅行旅館「みきはん」で、歌や話芸で誰が一番人気か競いあったという。また、原田が大学時代にサークルをサボって女子生徒と遊んでいた所を目撃し、彼をトイレで殴って便器に顔を突っ込んだことがある。やがて、あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねがすべて負担し、それでも余ったという[3][4]。
入門・弟子入り[編集]
五枚笹は笑福亭一門の定紋である。
弟子入りのきっかけは、入門前のある日、安井金比羅宮で開かれた米朝一門の落語会での6代目笑福亭松鶴の行いを見たことだという。高座に上がった松鶴は「あっ!」と固まった後、見えた僧侶を示して「あの坊さんの頭見たらネタ忘れてもた。オチだけ言うて降りま」と言い、本当にオチだけを言って2分ほどで降りてしまった。それを見て「エライ人や」と思い、松鶴への弟子入りを決めたという。
1972年2月14日、11番弟子として入門、「鶴瓶」の名を与えられる。入門を許されて4日目のこと、寄席の来場者の下足番を任された際に、いつも当たり前のように青田(無料、顔パスの意)で入場し横柄な態度で振舞う新聞記者に腹を据えかねて口頭でとがめたところ「お前、辞めさせたるわ、ちょっと来い」と松鶴の楽屋に連れて行かれた。松鶴から下足番を離れたことをたしなめられると、破門などの処分を覚悟してこの経緯を話した。すると松鶴は新聞記者を「アホ! カス! 去ね(帰れ)!」と罵倒し、「この子は将来、あんさんらが取材で世話になる子や! それに対して何をさらす(何をしやがる)!」と言い放った。その男気に、鶴瓶はたまらなく感動したという[5]。その後「鶴瓶」の名を与えられ、松鶴を「おやっさん」として慕い続ける[4]。
同年9月26日に島之内寄席にて「東の旅発端」で初舞台[6]。内弟子になっても師匠から全く稽古を受けられず何としてでも活動の場が早く欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)が使えることを松鶴に打ち明け、鶴瓶の超能力を目の当たりにした松鶴は驚愕し「ウチに超能力を使う弟子がおる」と松鶴自らがテレビ局に鶴瓶を売り込む。当然ながら超能力はテーブルマジックの類で、周囲に仕掛けを漏らしつつ頭から超能力を持つ弟子と信じ切っている松鶴という場面に持ち込み、必死になって売り込む松鶴に便乗して業界関係者に顔と名前を覚えてもらい、これを手がかりにテレビ、ラジオと進出する足場を作る。後に兄弟子の笑福亭仁鶴が鶴瓶のイカサマ超能力を暴き、松鶴は梯子を外された格好になった。
松鶴からは決して落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイのほか、鶴瓶自身の回想によれば、鶴瓶は「ある意味えらい怒られて稽古をつけてもらえなかった」[7]存在であり、松鶴が機嫌のよいときに兄弟子の笑福亭松葉に「稽古を頼めよ!」とけしかけられて稽古を頼み込むと、鶴瓶の目の前に顔を突き出した挙句、「嫌や!」と突き放されたこともあった[8]。ついには、「鶴瓶が聞いとるさかい風呂行って稽古しょう!」と他の弟子を引き連れて逃げ回られる事態に発展した[8]。松鶴の盟友であった五代目桂文枝はこのことについて「稽古の必要はないと思ってるからや」と分析しており、また鶴瓶が松葉など年の近い兄弟子に可愛がられるための、松鶴による気配りであることを示唆している[9]。また、鶴瓶と五代目文枝ともども、松鶴自身が五代目松鶴からあまりネタを教えてもらうことがなかったことが、稽古をつけなかったことの伏線とみなしている[7]。松鶴は鶴瓶の実父が亡くなった時も「普通は弟子のお父さんの葬式なんかに行かない」[10]ところを葬儀に出席したが泥酔の挙句大暴れし、鶴瓶の実姉に「松鶴かなんか知らんけど、人の親が死んでンねがな」と説教されると、「あー、恐……」と言って鶴瓶になついていたという[11]。
松鶴によって、高島屋大阪店ホール(現在はグランドホール)で行われた落語コンクールにエントリーされてしまった折は、入門前より学校などで披露していた『いらちの愛宕詣り』を覚え、その江戸版である「堀之内」(10代目桂文治の伸治時代のもの)の断片を交えつつ、古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、入門前より行っていたアレンジを適当に加えて演じた。審査員だった松鶴と香川登枝緒からは「時代錯誤も甚だしい」「こいつの落語は落語やおまへん。現にワタイ(落語の)稽古つけてない!」と酷評されてしまった[12]。そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。松鶴の若手時代のこの話をベテランのお茶子から教えてもらい、鶴瓶は気が楽になったという[4]。
入門当時には、小学6年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月で廃業が1974年)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼んでいた。その頃は子供がお笑いの世界でデビューする例が他にも見られ、そのような背景もあり手遊もあまり気を遣うことなく鶴瓶に「兄弟子」として振る舞うことがあったという(しかし先輩風の度が過ぎると鶴瓶が逆襲し、手遊を泣かせたというエピソードもある)[4]。
一時期、笠置シヅ子の隠し子であると振れ込んでいたことがある。当時すでに笠置は晩年で闘病生活に入っており、2人が会うことはなかったが、後にその病院の看護婦だった女性から「笑福亭鶴瓶って子がおるやろ、あの子、私の隠し子なんよ」と笠置が言っていたと教えられ、驚いたという[4]。
また、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力・エスパーブームの時期でもあり、「超能力がある」と言ってスプーン曲げをしていたこともある。洒落のつもりでスプーン曲げも力任せにやっていただけだが、上岡龍太郎の不興を買ってしまった。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白いということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった[13]。
1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪市中央区の「高津神社」で執り行われた。その結婚式の仲人は師匠の笑福亭松鶴 (6代目)が務めたが、スピーチの際に「ウチの弟子は13人いてまっけど、こいつが一番アホだ。終い!」とだけ言い残し、そのまま結婚式場を後にした[14]。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E7%A6%8F%E4%BA%AD%E9%B6%B4%E7%93%B6
笑福亭 鶴瓶 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E7%AC%91%E7%A6%8F%E4%BA%AD%E9%B6%B4%E7%93%B6&aq=0&oq=%E7%AC%91%E7%A6%8F%E4%BA%AD&at=s&ai=KV1cPyduQzeVfxco34JleA&ts=4073&ei=UTF-8
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