松田 宣浩(まつだ のぶひろ、1983年5月17日 - )は、滋賀県草津市矢橋町出身のプロ野球選手
松田 宣浩(まつだ のぶひろ、1983年5月17日 - )は、滋賀県草津市矢橋町出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。プロ野球滋賀県人会会長。愛称は「マッチ」など。
妻はKBC元アナウンサーの柴田恵理。
プロ入り前[編集]
1983年5月17日に滋賀県草津市で生まれた[2]。草津市立老上小学校2年生の時に矢橋レモンズで軟式野球を始めた[2]。中学校では栗東ボーイズで硬式野球に転向した[2]。
中京高等学校では主に3番・遊撃手で出場し、高校通算61本塁打を記録した[2]。2年時に第82回全国高等学校野球選手権大会に双子の兄とともに出場(当時の校名は中京商、3年時に校名変更)も、対沖縄県立那覇高等学校戦で延長の末、自らの悪送球で決勝点を与え、1対2で初戦敗退した。
亜細亜大学入学後は1年春(2002年)から4番を任され東都大学リーグ戦に出場し、同シーズンで3本塁打と力を見せた[2]。同年は第1回世界大学野球選手権日本代表メンバーに選出されて5番を務め、3位に貢献した[2][3]。2003年も2年連続で第35回日米大学野球選手権大会日本代表メンバーに選出された。井口忠仁(青学大)が持つリーグ通算24本塁打の記録更新も期待されていた。しかし、3年時に部員の不祥事が発覚し、亜細亜大学は半年間の対外試合禁止の処分を受けた。その結果リーグ戦、入替戦は不戦敗扱いとなりリーグ2部へ降格となったため、松田が在籍中の1部復帰は不可能となり記録更新はならなかった[4]。3年生時までの松田の通算本塁打は15本、シーズン最多は2年秋の6本である。その後、亜細亜大学は主将に就任した松田を中心に2005年秋のリーグ2部で優勝し、1部へ復帰した。1部リーグでは通算76試合出場、275打数62安打、打率.225、15本塁打、41打点でベストナインを1回獲得した。2部リーグでは通算10試合出場、37打数9安打、打率.243、4本塁打、10打点を残した。
ソフトバンク時代[編集]
2005年11月18日に行われた大学生・社会人ドラフト会議にて希望入団枠制度により選択され、12月2日に仮契約を行い福岡ソフトバンクホークスに入団した[5]。12月5日に入団会見を行い、背番号は「5」に決まった[6]。ソフトバンクはチームの若返りを図る方針へ転換し、同年27本塁打を記録した正三塁手のトニー・バティスタとの契約を1年残して打ち切り[7]、松田を江川智晃らと競わせるとし、二塁手へのコンバート案も挙げていた[6]。
2006年は開幕一軍入りを果たすと、3月25日のパシフィック・リーグ開幕戦でスタメン出場[8]。新人野手が一軍の開幕戦にスタメンで出場したのは、小久保裕紀以来チーム12年振りであった。しかし6月15日に二軍落ちすると、そのままシーズンを終えた[8]。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%AE%A3%E6%B5%A9
松田 宣浩 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2Rivb12puBYuAEAsluU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=%E6%9D%BE%E7%94%B0+%E5%AE%A3%E6%B5%A9&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
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