香川 真司(かがわ しんじ、1989年3月17日 - )は、兵庫県神戸市出身のプロサッカー選手。
香川 真司(かがわ しんじ、1989年3月17日 - )は、兵庫県神戸市出身のプロサッカー選手。ブンデスリーガ・ボルシア・ドルトムント所属。日本代表。ポジションはミッドフィールダー[2]、フォワード[3]。
プロ入り前[編集]
幼稚園に通っていた頃からサッカーを始め[5]、小学校1年生となった1995年から地元のマリノFC[6] に所属した[7][8][9]。その後、東舞子サッカークラブを経て、小学5年生の時には神戸NKサッカークラブ(現・センアーノ神戸)[10] に所属した[7][8][9]に所属した。小学4年生で神戸市選抜のメンバーに選出され、小学5年生になると神戸NKの監督からFCみやぎバルセロナ(宮城県仙台市)へのサッカー留学を勧められた[5][11][12][13]。
2001年、中学校入学と同時にサッカー留学し、仙台市立八乙女中学校に通いながらFCみやぎバルセロナのジュニアユースに所属し練習に励んだ[8][14]。この時期、ナショナルトレセンやU-15日本代表にも選出されている[7]。
2004年、宮城県黒川高等学校(土木科)に進学し、高校1年生の時に日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会に出場した[9][15]。2005年9月、高校2年生の時にU-18東北代表(清水秀彦監督)に飛び級で選出され、仙台カップ国際ユースサッカー大会 (U-18) にボランチとして出場し[16]、MIPの1人に選ばれた。
セレッソ大阪時代[編集]
高校二年生だった2005年12月18日に出身地である兵庫県神戸市に程近い大阪市東住吉区に本拠地を持つJリーグのクラブチームであるセレッソ大阪と仮契約を交わした[7][17]。年が明けて2006年にセレッソ大阪に入団し、同球団と業務提携していたウィザス高等学校(通信制)に転校した[7]。Jリーグのクラブの育成機関に所属する選手がトップチームに昇格する場合を除き、高校卒業前の選手がJリーグのチームとプロ契約を結んだ例は香川の例以前に前例がなかった。同期入団の選手には、セレッソ大阪U-18からトップチームに昇格した柿谷曜一朗がいる。
2006年シーズンは出場機会を与えられることなく終えた。J2で迎えた2007年シーズン中に当時の監督レヴィー・クルピによって実力を見出されてレギュラーの座を獲得し、リーグ戦35試合に出場して5得点を記録した。また、カナダで開催されたU-20ワールドカップにも飛び級で選出され、2試合に出場した。なお、そのときFIFAに提出したメンバー表ではディフェンダーとして登録されていた[18]。
2008年シーズンは開幕からセレッソ大阪の主力として活躍し、本来所属する世代であるU-19代表の他、北京五輪に出場するU-23にも飛び級で選出され、リーグ戦では35試合の出場で16得点を記録した。
2009年シーズンから背番号を森島寛晃が着用した「8」へ変更した。J2第15節水戸ホーリーホック戦でプロ登録後初のハットトリックを達成し、その後も4試合連続ゴールを記録するなど得点を重ねた。シーズン終盤は怪我の影響で主にスーパーサブとしての出場が目立ったが、リーグ戦で27得点を記録しJ2得点王に輝くなど、チームのJ1昇格の大きな原動力となった。
香川にとってJ1で初めてプレーするシーズンとなった2010年シーズンの開幕前には国内外のクラブへの移籍も噂されたものの、シーズンの開幕時点ではチームに残留した。このシーズンのセレッソ大阪における最後の試合となった5月15日のヴィッセル神戸戦で自身初となる直接フリーキックでの決勝点を記録するなど、リーグ戦の出場期間の2ヶ月半で11試合7得点の好成績を残した。
ボルシア・ドルトムント 時代[編集]
ブンデスリーガ優勝を祝う香川
2010年7月1日、育成補償金35万ユーロ(約4000万円)[19] でブンデスリーガ1部のボルシア・ドルトムントに移籍した[20][21]。2009年12月にドルトムントのホーム試合に招待された香川は、8万を超える観衆が送る大声援に感激し、早い段階でドルトムントへの入団希望を伝えていたという[22]。
2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグプレーオフ第1戦でのFKカラバフ戦に出場した香川は2得点を挙げ、ドルトムント移籍後の公式戦初得点を記録した[23]。ブンデスリーガ第3節VfLヴォルフスブルク戦で移籍後のリーグ戦初得点を記録し、第4節シャルケ04とのルールダービーにて、「僕が2点取って2-0で勝つ」との公約通りに2得点を挙げ[24]、キッカー誌、ビルト紙等で最高評価点『1』を獲得した[25]。UEFAヨーロッパリーグにおいてはチームは決勝トーナメント進出を逃したが、香川自身は同大会の8試合で4得点を記録した。このシーズンの香川はリーグ前半期17試合で8得点を記録し(ミッドフィルダーとして登録された選手の中ではブンデスリーガ1位)、ブンデスリーガ公式サイトにて最優秀選手並みの活躍をしたと報じられ[26]、キッカー誌が選定するリーグ前半戦の攻撃的ミッドフィルダー部門では最優秀選手に選出された[27]。2011年1月には国際サッカー連盟(FIFA)が発表した「2011年期待の若手13人」の1人に選ばれた[28]。しかし、2011年1月のアジアカップでの負傷により、ドルトムントの9シーズンぶりのリーグ優勝の瞬間をピッチで迎えることはできなかった。それでも、5月14日のブンデスリーガ最終節アイントラハト・フランクフルト戦の後半43分にサポーターのカガワコールに迎えられ、約4カ月ぶりの実戦復帰を果たした。シーズン後半はこの1試合の出場に留まったものの、シーズン終了後にキッカー誌が選定したブンデスリーガの年間ベストイレブンに名を連ねた[29]。
2011-12シーズンの初戦となったシャルケ04とのDFLスーパーカップではフルタイムで出場したが、チームはPK戦の末敗れタイトルを逃した。ブンデスリーガ第6節ハノーファー96戦で怪我から復帰後初のリーグ戦で得点を記録した。10月に入ると不振が続き2試合連続で出場機会を失ったが、徐々に調子を取り戻し、11月5日の第12節ヴォルフスブルク戦では1ゴール2アシストを記録し[30]、第13節バイエルン・ミュンヘン戦ではマリオ・ゲッツェの決勝点をアシストした[31]。一方、自身初出場となったUEFAチャンピオンズリーグでは11月23日のグループリーグのアーセナル戦で同大会初得点を挙げたが、チームはグループリーグ最下位で敗退した。その後、2012年1月28日の第19節ホッフェンハイム戦では2得点を決めた他[32]、1月はこの試合を含めて2試合で2ゴール1アシストを記録した。この活躍が評価されキッカー誌の欧州月間ベストイレブンに選ばれた[33]。その後も好調を維持し、ESM(European Sports Magazines、欧州スポーツ雑誌協会)により2月度以降3ヶ月連続で欧州月間ベストイレブンに選出された[34][35][36][37][38]。第27節1.FCケルン戦では2ゴール1アシストの活躍で自身のリーグ得点記録を2桁台にのせ[39]、リーグ優勝に王手をかけた第32節ボルシア・メンヒェングラートバッハ戦では決勝ゴールを決めてチームのリーグ連覇に貢献した[40][41]。更に、5月12日に行われたバイエルン・ミュンヘンとのDFBポカール決勝で香川は1ゴール1アシストを記録し、チームは5-2で快勝した。この勝利によりドルトムントはクラブ史上初となる国内2冠を達成し2011-12シーズンを締めくくることとなった。この時期の香川の活躍を高く評価したビルト誌は香川をブンデスリーガの年間ベストイレブンに選出し[42]、ヨーロピアン・スポーツ・メディア(ESM)も欧州年間ベストイレブンに香川の名を挙げた[43]。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%9F%E5%8F%B8
香川 真司 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%9F%E5%8F%B8&aq=0&oq=%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%82%8F&at=s&ai=RtPmx.VxQJundYEJI1l5ZA&ts=6371&ei=UTF-8
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