永井 謙佑(ながい けんすけ、1989年3月5日 - )は、広島県福山市出身の[4]プロサッカー選手。
永井 謙佑(ながい けんすけ、1989年3月5日 - )は、広島県福山市出身の[4]プロサッカー選手。Jリーグ・FC東京所属。ポジションは主にフォワード(FW)[5]。元日本代表。
生い立ち[ソースを編集]
父親の仕事の都合で3歳の頃から家族と共にブラジル・イパチンガに移住[2][3]。兄の影響を受け、近所の道端にて裸足で現地の子供達とストリートサッカーをしており[6][7][2]、ポルトガル語も喋れたという[8]。
8歳の時に帰国[8][2][3]。福岡県北九州市八幡西区の中学校を卒業後、兄と同じく[7]九州国際大学付属高校に進学。入学時には小柄だったが[8]在学中に「背が伸びて急に脚が速くなった」と抜群の脚力と得点力が開花[2][9]。杉山公一監督の下、3年時に全国高校サッカー選手権に出場し[3]、富山第一高校に2得点を挙げて1回戦を突破するも、2回戦は桐光学園高校に0-1で敗退。
福岡大学[ソースを編集]
福岡大学監督の乾眞寛が杉山の師に当たることもあり[10][11]、2007年に同大学へ進学。トップスピードに至るまでの初速に強みを見出され[6]1年時から背番号10を着け主力としてプレー[12]。
2009年の総理大臣杯では全4試合連続得点の計5得点を挙げ、福岡大学の大会初優勝に貢献[3]。また同年の天皇杯では2回戦水戸ホーリーホック戦、3回戦ガンバ大阪戦でJリーグ勢から得点を記録した。2010年の九州大学リーグでは多田高行、清武功暉、中原秀人、大山直哉らを大きく引き離してアシスト王を獲得[13]。4年間の通算では43試合28得点。大学の卒業論文は「2010 FIFAワールドカップの得点傾向に対する一考察」。
また、2009年にはJ2・アビスパ福岡の特別指定選手として登録され[14]篠田善之監督の下でプレー。5月30日に行われた岐阜戦でJリーグ公式戦初出場を果たし、通年でJ2計5試合に出場した。翌2010年はJ1・ヴィッセル神戸の特別指定選手に登録された[15][16]。
入学時には大学限りでサッカーを終えるつもりでいたが[17]、2010年には10以上のJリーグクラブが獲得に動いていると報じられ[18][19][20]、7月末から8月中旬にかけて練習参加先として選んだ浦和レッズ、FC東京、名古屋グランパスの3クラブと[21][22]、特別指定先だった福岡・神戸の2クラブとの交渉を経て[23]、同年末に名古屋入団を決めた[5]。
名古屋グランパス[ソースを編集]
2011年より名古屋でプレー。アジア大会出場により、新人ながらA契約を締結した[24]。同年3月1日、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)開幕戦の杭州緑城(中国)戦で後半から途中出場しプロデビュー。同月5日、Jリーグ開幕戦の横浜FM戦に途中出場し、自身の突破によりPKを獲得する活躍でJリーグデビューを飾った[24]。翌4月6日にはACL第2節FCソウル(韓国)戦でプロ初得点。J1第20節[注 1]磐田戦でJリーグ初得点。リーグ戦後半からスーパーサブとしての起用が続いた[26][25]。
2012年は先発出場を続けチーム最多となる10得点を達成[27]。
スタンダール・リエージュ[ソースを編集]
名古屋とは2013年末までの契約を結んでいたが[28]、オリンピックでの活躍を目に留めた[29]ジュピラーリーグ(ベルギー1部リーグ)のスタンダール・リエージュから設定額を上回る移籍金を提示され、2013年1月に同クラブへ完全移籍[30]。契約期間は2017年6月までの4年半[31][29]。
2月10日のリーグ第26節モンス戦で移籍後初出場を果たしたが、同地での筋力トレーニングを続ける中で長所のスピードを失ってしまい[32]、レギュラーに定着できないまま2012-13シーズンを終えた。翌2013-14シーズンに際して状況の好転が見込まれない中、古巣名古屋から復帰オファーを受けた[33][34]。
名古屋グランパス復帰[ソースを編集]
2013年8月、名古屋へ期限付き移籍[35]。登録完了直後のJ1第21節広島から出場を続けたものの[36]、ベルギーで崩していたフィジカルは本調子には戻らなかった[32]。
2014年夏場にかけて復調し、期限付き移籍期間を延長[37]。得点を量産し通年では自己最多の12得点を記録した。また同年の天皇杯では宇佐美貴史と並んで6得点を挙げ大会得点王に輝いた。
2015年1月、完全移籍へ移行し[38]退団した玉田圭司に代わって背番号を11に変更。同年はサイドハーフやウイングバックといった[39]不慣れなポジションでの起用にも応え[40]、爆発的なスプリント力を活かして[32]守備では相手に食らいつき[39]、攻撃でも長距離を加速して相手ゴールを脅かした[41]。通年では2年連続の二桁得点を達成。
2016年は、小倉隆史新体制下で局面ごとの判断に戸惑い精彩を欠いていたが[42]、小倉解任後の2nd第14節福岡戦で自身初のハットトリックを達成した[43]。同年末、2017年末までの契約延長の打診に対し複数年契約を希望して[44]見直しを求めたが、クラブ側がこれに応じなかったため退団を決断[45][46]。
FC東京[ソースを編集]
複数クラブの争奪を経て[47]、2017年より福岡でも師事した篠田が率いるFC東京へ完全移籍[48][49]。
日本代表[ソースを編集]
高校選手権での活躍から[17]、大学進学後すぐにU-18日本代表メンバー入り。2008年の大学2年次にAFC U-19選手権に出場。チームは準々決勝韓国戦で敗れたものの、柿谷曜一朗の控えという立場ながら[50]イラン戦のハットトリックを含む4得点を挙げ[51]、得点王となった[7]。同大会敗退の悔しさからプロ入り及びオリンピック出場を決意[7][17]。
2009年には日本代表として第25回ユニバーシアードに参加。持ち前のスピードを活かすべく相手が体力を消耗した時間帯に途中投入され[52]、ブラジル戦及びタイ戦のハットトリックを含む大会通算7得点を記録。得点王を獲得し[3][7]日本の銅メダル獲得に貢献した。同年12月21日、2010年1月6日開催AFCアジアカップ最終予選・イエメン戦に臨む日本代表に選出された[53]。流通経済大学の山村和也も選出され、大学生のA代表入りは18年ぶりのことであった[54]。
さらに、2010年6月開催のFIFAワールドカップ日本代表メンバー発表前の最後の公式戦であるセルビア戦に招集されるなど[3]現役大学生初のワールドカップ出場に期待を寄せられたが[18]、本大会にはサポートメンバーとして帯同するに留まった[55]。
同年、ロンドンオリンピックに向けた日本代表の発足メンバーとして広州アジア大会に招集されると、俊足を活かして[26]5得点を挙げて得点王となり[56][[7]チームの優勝に貢献。オリンピック予選では、2011年2月のシリア戦の1得点のみで控えに回り、同年のトゥーロン国際大会も名古屋のACL参加によって招集されなかった[26]。
2012年Jリーグ前半戦の好調ぶりもあってオリンピック本大会のメンバーに選出されると[57]、ボール保持者へのチェイシングや球際で怯まない姿勢[58]で相手守備陣を混乱させ[1]、グループリーグ第2戦モロッコ戦[26]及び準々決勝エジプト戦で決勝点を記録。俊敏さと勤勉さ、縦への推進力で[59]エースとしてチームを牽引した[26]。大会後、アルベルト・ザッケローニA代表監督からの招集は無かったものの[32]、ザッケローニは、もし(規定の23名ではなく)25名を(2014年の)ワールドカップに招集できるなら永井のような選手を選んでいた、と能力を認められていた[60]。
2015年3月、ヴァヒド・ハリルホジッチ新体制となったA代表に選出[32]。ワールドカップ予選[61]及び東アジアカップ[62]を戦った。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%AC%99%E4%BD%91
永井 謙佑 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%AC%99%E4%BD%91&aq=0&oq=%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%91%E3%82%93&at=s&ai=ldgZN0p6Rwyk2T2UABUntA&ts=11803&ei=UTF-8
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