サー・トマス・ショーン・コネリーは、スコットランド出身の映画俳優。
サー・トマス・ショーン・コネリー(英: Sir Thomas Sean Connery、1930年8月25日 - )は、スコットランド出身の映画俳優。『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で一躍有名となり、その他のアメリカ映画にも多数出演している。公称身長188cm。
スコットランド・エディンバラでアイルランド系の家庭に職工、トラック運転手の父ジョセフと、洗濯女の母、ユーフェミアのとの間に生まれる[1][2]。先祖の地はアイルランド東部ウェックスフォード州[3]。
義務教育修了後最初に得た仕事は牛乳配達であった[4][5]。その後イギリス海軍に従軍するも、健康上の理由で除隊し、トラック運転手、労働者、美術モデル[6][7]やライフガードなど種々の仕事をしながらボディビルジムに通う。1953年にはミスター・ユニバース・コンテストの重量上げ部門で3位入賞したが、その時に出場者の一人に演技の道に進むように勧められる。1954年からテレビや劇団に出演するようになる。
スコットランド人としての矜持が強く、その独特のアクセントを矯正したことは一度もなく、ジェームズ・ボンド役を引き受ける際もアクセントを矯正しないことを絶対条件とした。このため、ボンドは原作に於いてスコットランド出身という設定が付け加えられた。ボンド以外の役柄もスコットランド出身という設定に変更したものが多い(『風とライオン』等)。
1961年、ジェームズ・ボンド役としてイオン・プロと5本の作品に出演する契約を交わし、翌1962年の『007 ドクター・ノオ』で知名度は世界的に上昇した。5作出演の契約遂行後も2度の返り咲きで計7本の作品でボンド役を務める。自己紹介の台詞「The name is Bond, James Bond.」を初めて使い、以来2作を除く[8]全作で使われるようにした張本人でもある。ボンド、或いはボンドのパロディ的役どころ(例:『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』、『ザ・ロック』等)を演じることには積極的であるが、プロデューサーであるアルバート・R・ブロッコリやハリー・サルツマンとの仲は芳しくなく、シリーズへの復帰には消極的であった。『ネバーセイ・ネバーアゲイン』は彼らの干渉を受けずに自ら製作した作品である。
直接の後任俳優の一人、ロジャー・ムーアとは無名時代からの友人であり、ともに共演を望んだほどの仲良しである。
歴代のジェームズボンド俳優では1度引退して2度ジェームズボンド役に復帰している。これは2016年現在ショーン・コネリーのみである。
『007』降板後も様々なジャンルの映画に出演し、1987年には『アンタッチャブル』でアカデミー助演男優賞を受賞。
1998年にブロードウェイで『'Art'』を製作し、トニー賞 演劇作品賞を受賞。
2000年にイギリスのエリザベス2世女王からナイトの称号を与えられたが、スコットランドの分離独立を主張するスコットランド国民党の熱烈な支持者でもある。授与式には、民族衣装キルトで正装して現れた。なお、彼は「スコットランドが独立するまで私は死んでもスコットランドに帰らない」とまで明言している[5]。
2006年にアメリカ映画協会(AFI:American Film Institute)の生涯功労賞を受賞したのを機に、俳優業引退を宣言した[9]。
2008年、78歳の誕生日にエディンバラ国際ブックフェスティバルで自伝[10]を発表し、発表会見にはスコットランド国民党のアレックス・サモンド党首も出席した[5]。
私生活[編集]
1962年に女優のダイアン・シレント(Diane Cilento)[11]と結婚し、息子のジェイソン・コネリー(後に俳優となる)[12]をもうけるが、1973年に離婚。1975年にはフランス人アーティストのMicheline Roquebruneと再婚している。
1965年の『PLAYBOY』のインタビューで、「女性を殴るのは別に悪いとは思わない」と発言し、シレントへの暴力疑惑が起こるが、コネリーはこれを否定した。シレントはこの件に関して沈黙を守ってきたが、2005年になって、翌年出版の自伝[13]の中で、11年間の結婚期間中、肉体的・精神的に虐待されてきたと暴露した[14]。1965年には、アルメニアで撮影中、現地の結婚式に招かれ、酔って帰ったところを先に帰っていた夫に殴られたという[15][16]。2008年、シレントは、コネリーが一人息子のジェイソンに対して、自立して生計を立てるよう、8千5百万ポンドの財産のうち1ペニーたりとも相続させないと言ったと語った[17][18]。しかし、コネリーはこれを否定し、息子との関係は良好であると語り、暴力疑惑についても争う用意があることを明らかにした。また、離婚した際にジェイソンおよびシレントの娘の教育費として8万5千ポンドの信託財産を設けたが、今日では当然もっと増えているはずだと主張した[19]。ジェイソン本人も、父は暴君ではなく、父が稼いだ金をどうしようと父次第だと述べた[20]。しかし、シレントはコネリーが34歳のとき、セラピーで(当時は合法だった)LSDを使い、それが虐待を引き起こしたと主張した[21][22][23]。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%83%BC
サー・トマス・ショーン・コネリー 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%83%BC&aq=0&oq=%E3%81%97%E3%82%87%E3%83%BC&at=s&ai=Uu1ul1XbTNaMgcAfgtcTBA&ts=5797&ei=UTF-8
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