柏木 陽介は、ポジションはミッドフィールダー。妻はTBSアナウンサーの佐藤渚。
柏木 陽介(かしわぎ ようすけ、1987年12月15日[1] - )は、兵庫県神戸市生まれ、揖保郡御津町 (現:たつの市) 育ちのサッカー選手。Jリーグ・浦和レッズ所属。日本代表。
ポジションはミッドフィールダー。広島県立吉田高等学校卒業。妻はTBSアナウンサーの佐藤渚[2]。 マネジメント事務所はレプロエンタテインメント所属。
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プロ入り前[編集]
兵庫県神戸市生まれ、揖保郡御津町育ち。小中学校の同級生には木下真吾がいた。中学3年時、ヴィッセル神戸ユースに進もうとしていたが、サンフレッチェ広島からスカウトされ、ユース寮などの練習環境に惹かれ、テストを経て2003年広島ユースに加入。その当時は体がかなり細かったこともあり[3]、関西圏チームのどこからも具体的なスカウトはなかった。
元々は攻撃的なMFの選手だったがボランチにコンバートされ、高校2年からレギュラーを掴み、チームの中軸としてユースチームで高円宮杯全日本ユース選手権の初制覇、日本クラブユース選手権の連覇を達成し、高校3年次には2種登録選手としてナビスコカップに出場。またU-17、U-18日本代表にも選出。
サンフレッチェ広島[編集]
2006年に広島のトップチームに昇格。同期入団は橋内優也、槙野智章、趙佑鎮ら。6月にミハイロ・ペトロヴィッチが監督に就任すると、「若手を積極的に起用する」という方針[4] から攻撃的MFとしての出場が増加し、レギュラーに定着[5]。17試合に出場し、シーズン終盤の快進撃に貢献した。11月にはAFCユース選手権2006に出場し、3得点4アシストを挙げる。この活躍を受けてペトロヴィッチからは、「広島のダイヤモンド」[6] と称された。
2007年4月15日、日本代表強化合宿でオシムジャパンの候補に初選出[7]。同年、2007 FIFA U-20ワールドカップに出場。10番を背負いセントラル・ミッドフィールダー[8] として、サイドの梅崎司・田中亜土夢、守備的なボランチの青山隼と共に中盤を構成し「調子乗り世代」の主力として活躍、決勝トーナメント進出を果たす[9]。それが認められ、同年北京オリンピックアジア予選メンバーに選ばれ予選突破に貢献する[3]。柏木本人がブンデスリーガへの移籍を希望していた[10] ほか、シーズン終了後に広島のJ2降格が決定したことから複数クラブからのオファーがあった[11][12] が、最終的に広島に残留した。
2008年には背番号が27から10に変更された。なお、広島の背番号10は代々高木琢也、久保竜彦、ウェズレイらストライカーの選手が背負っており、中盤の選手が10を背負うのは柏木が初であった。北京五輪代表候補にも名前が挙がっていたが、序盤の怪我による不振から北京五輪本大会のメンバーには選ばれなかった[13]。
2009年はJ1復帰初年度でありながら4位と躍進した広島の攻撃の中心として活躍したが、ブログにメールアドレスと電話番号を載せてしまうという失態もあった[14]。
浦和レッズ[編集]
2009年12月15日、浦和レッズへの完全移籍が両チームから発表された[15][16]。柏木はこの移籍について、ステップアップのためのものとコメントしている[15]。なお、契約満了をもっての移籍であったため移籍金は発生せず、トレーニング育成費として浦和から広島に4800万円が支払われると報道された[17]。同年12月21日にはアジアカップ最終予選・イエメン代表戦に向けたA代表に初招集された。
2010年1月9日、埼玉スタジアムで浦和への加入記者会見が開かれた[18]。背番号はかつて浦和に大きな貢献をもたらした広瀬治、小野伸二、アレックスといった選手達が付けていた8に決定した。シーズン開幕直後は不慣れなサイドでの起用、本職のトップ下に入っても周りの選手との連携や広島と浦和のサッカースタイルの違いに苦しみ、なかなか本領を発揮することが出来ずにいた。しかし、8月末に阿部勇樹が退団した影響もあって手薄になったボランチで起用されるようになってからは得点に絡む場面が増えるなど徐々に本領を発揮出来るようになっていった。浦和移籍後初得点は5月5日のJ1第10節名古屋グランパス戦の後半3分に記録した。最終的にこのシーズンは公式戦全試合出場したエジミウソンに次ぐ、公式戦43試合に出場した。
2011年1月、AFCアジアカップ2011に出場する日本代表に選出[19]。トップ下を務める本田圭佑の負傷により、グループリーグ第3戦サウジアラビア戦に同ポジションで先発出場した。この試合は大勝し献身的なプレーは評価された[8] 一方得点やアシストはつかず、本田の復帰により以後の出場は無かった(日本はこの大会優勝)。
2011年、シーズン当初は前年度から大きく様変わりした戦術に合わず、自身の調子もチームの成績も芳しくない時期が続いたため、一時はスタメン落ちも経験した。しかし、シーズン終盤にかけて調子を上げ、11月26日のJ1第33節アビスパ福岡戦では前半終了間際に起死回生の同点ゴールを挙げる等の活躍を見せ、チームのJ1残留に大きく貢献した。
2012年は、広島時代の恩師でもあるミハイロ・ペトロヴィッチ氏が新監督に就任し、柏木自身はかつて広島時代もプレーしたシャドーのポジションでプレー。攻撃の中心として、以前の輝きを感じさせるプレーを随所に披露した。チームは最終節の名古屋戦を柏木の得点もあって2-0で勝利。この結果シーズン3位となり、AFCアジアチャンピオンズリーグの出場権を獲得した。
2014年は、開幕直前に新加入の青木拓矢が怪我で離脱するアクシデントもあり開幕からボランチ起用された。 ボランチでも高度なパスセンスと高い位置で奪い取るディフェンスで、攻守に貢献している。 連勝の止まった5月5日ヴァンフォーレ甲府戦以降は再びトップ下に戻った
2015年は、攻撃的なズラタン、武藤雄樹などを補強したためボランチに固定された。7月、東アジアカップ2015に出場する日本代表メンバーに選出されたが、直前のリーグ戦で左内転筋を負傷し出場辞退となってしまった。10月、再び代表に招集され10月13日のイラン戦で約3年ぶりに、伝統の背番号7を託され国際Aマッチ出場を果たした。
2016年は、6年ぶりとなる背番号10に変更。これはクラブとして福永泰以来日本人では16年ぶりとなる背番号10となった。
2017年は、第5節のヴィッセル神戸戦で2得点1アシストの活躍で首位相手に勝利に貢献した。
引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E9%99%BD%E4%BB%8B
柏木 陽介 画像 : https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E9%99%BD%E4%BB%8B&aq=1&oq=%E3%81%8B%E3%81%97%E3%82%8F%E3%81%8E&at=s&ai=AmCEn0FVT3.3oAfYCKZf5A&ts=7529&ei=UTF-8
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